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千恵子の部屋

千恵子:長野県大町市 60代 女性
 
私の少年記
・【飛んだ:千恵子】2011.2.19

【若い力・千恵子】2011.4.6

2011/04/06 6:44 に ついついペコ が投稿   [ 2011/04/06 6:48 に更新しました ]

人は幸福なときは、それは見えない。幸福でないときは

それは見える。何気ないことも、とっても幸福に思える

まさに、今がそんなときだと思います

被災地の皆様も、今はまだ何も考えられないと思います   

でも  けして、一人ではありませんよ

日本中、いいえ世界中の人々が応援しています

一歩一歩努力し前進してほしいと思います

高校生の方々も、明日の明るい未来のために若い力を発揮してほしいと思います

無理をせず、少しずつ

がんばってほしいです。健康には、じゅうぶん気をつけてくださいね

信州の地より応援しています

明けない夜はない  必ず朝は来る

   ファイト                 千恵子

【東北関東大震災に思う・千恵子】2011.3.30

2011/03/29 18:27 に ついついペコ が投稿   [ 2011/04/01 3:04 に更新しました ]

少年期で水害の思い出を書き、地震が起きないように祈って文を閉じてから、わずか2週間で、東北関東大震災が起こってしまい、とてもショックでした。地震のあった3月11日は、たまたま私の仕事が休みだったので、主人と2人で松本へ用事に出かけていました。

帰り道、安曇野市明科にある野菜売り場によると、そこにいたおばちゃんが東京が大変なことになっているというので、びっくり。
あわてて車に戻ってニュースを聞き、すぐに東京に電話するも、すでに通じず「どうしよう」と、青くなってしまいました。

そんな時、メールが入り、「みんな無事だよ」 との知らせに、おもわず涙が出てとまりませんでした。買い物もそこそこに、あわてて家に帰り、テレビをつけて見ると、それはそれは、とても悲惨な光景が目に飛び込んできて、体が凍り付くような思いでした。

次の日の朝早く、長野県の栄村で大きな地震があり、大町市も大きな揺れがあり、びっくりして飛び起きました。
いったいどうなってしまったんだろう、今に、日本が、沈んでしまうんでわないかと、恐怖に振るえてしまいました。

あの日以来連日テレビは、被災地のニュースが報道され気の毒でなりません。涙が出て仕方がありません。でも悲しんでばかりはいられません。
被災地の方がたは、みな頑張っているんです。私たちにできることをしなくてはと思い、買い置きしてあった、靴下とか、下着を袋に入れ、義援金、支援物資を受け付けている所へ届けました。皆さんの優しい気持ちがたくさん集められていました。
トラックに積まれ被災地へ出発するのを見送りました。1日でも早い復興を願い。そして、まだまだ多くの行方不明の方がたの救出を祈りつつ。

地震で被害を受けた福島原発。
広い範囲で放射線量が発表されている。いろんな野菜も出荷停止され、水道水の中にまでも。

国は「食べても大丈夫だ」しかし「食べないほうがいい」とか、いろんなことを言う。「どっちなんだよ」と、言いたくなるような発言。何を信じていいのかわからない。

赤ちゃんは水道水は飲まないほうがいいということで、ペットボトルの水が配られたりしている。私の家でも親戚から水を買ってくれと頼まれ、店に行ってみると、こちらの地でも手に入りずらい状態になっている。何軒もの商店を廻り少しのペットボトルを買いました。赤ちゃんのために。

世界中、いろんなところに影響が出始めていますね。
会社が、部品が入荷せずに休んでいるところ。燃料が品薄で短時間営業しているところ。
いつになったら元の生活に戻れるのでしょうか。

みなで節電をしたり、少しがまんの生活をしたりしながら、しばらく頑張っていこうではありませんか。

被災地の皆様にお見舞いを申し上げるとともに、1日も早い復興をお祈りいたします。

【堤防が切れた!:千恵子】2011.2.26

2011/02/26 5:45 に ついついペコ が投稿   [ 2011/02/26 5:47 に更新しました ]

 今、ニュージーランドのクライストチャーチで地震が起き、大変なニュースになっていますが、自分も小さい頃、2回の水害に遇い、とても怖い思いをしたことを思い出しました。
 
 一回目はまだ小学校に入る前。そして、2回目は中学生の時でした。
 
 中学1年生の秋のことです。乳川の堤防が切れて「ドーン」と言う大きな音に、なんだろうと川の方を見ていると、大きな波のように、水が膨れ上がりながら流れてきました。
 
 あっという間に、床上まで水がつき、台の上に畳を重ね、物を乗せたこと、水が引いた後は、床板をはぎ、泥を出したこと、そして、田んぼの稲を勤労奉仕で干し出したこと等が、今でも脳裏に焼き付いています。
 
 道路が背丈以上も掘れ、横の川が砂で埋まり、両方が逆転したような所もありました。何十年も経った今でも、忘れることができない、怖い思い出です。
 
 クライストチャーチでは、大勢の方がいまだに行方不明になっていますが、一人でも多くの方が早く、見つかってほしいと願います。

【笑っちゃいます:千恵子】2011.2.24

2011/02/24 5:14 に ついついペコ が投稿

 皆さんは、こんな思い出ありませんか?
 
 私の実家は、(長野県北安曇郡松川村)乳川(ちがわ)から歩いて5分くらいの所にあります。今でこそ学校とか、いろんな施設にプールがありますが、私が子供の頃には、川がプールでした。
 
 親たちが石を並べて川の水をせき止めてくれ、そこで遊んだものでした。日本手ぬぐいでメダカを獲ったり、カジカを捕まえたりしました。
 
 水着などもちろんなく、下着(ズロース)一丁でした。水の中に入ると、空気が入って膨らみ、それをたたき合い、つぶす。そんなことをして遊んだものです。帰りには、柳の枝に下着を通し、担いできました。想像してみてください。面白いでしょう?
 
 また、帰る途中にある、大きな木(何の木だか思い出せない)の根元を掘じくって、かぶと虫を採ったりもしました。
 
 今では、メダカは見たくも見れないように、なってしまいましたね。自然がそれだけ汚染されてしまった、と言うことですよね。かぶと虫は店で売っている時代。何だか、ロマンがありませんね。
 

 子供が小さい時は、いろんな思い出を作ってあげたいですね。大人になって「ん〜、思い出って、ゲームをしていたことくらいかな」では、淋しすぎますものね!

【飛んだ:千恵子】2011.2.19

2011/02/19 5:13 に ついついペコ が投稿   [ 2011/02/19 6:01 に更新しました ]

 (少年記以外の投稿・・・あまり気にしない、気にしない。面白いですよ!)
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ある休日の朝、主人の「おーい、いつまで寝てるんだー。早く起きろ。今日は山へ行くぞ」の大きな声に、目を覚ます。「えー、帰って来れなくなったら、困るよ」と私。「大丈夫だよー、今日は、雨は降らないよ」との強い言葉に、しぶしぶと支度をする。友人の山小屋、烏帽子岳と野口五郎岳の、荷揚げの日でした。
 
 友人の「かあちゃん、一回山へ来て見てよ、良いところだよ」と言う、やさしいお誘いの言葉に甘えて、ヘリコプターに乗せてもらい、野口五郎岳の山小屋へ行きました。
 
 若い時は私も、山が好きで、何回か登山もしましたが、何十年振りかの山の上でした。眼下に大町を、肉眼で見ることもできました。
 
 水晶、薬師、つばくろ、大天井、まだまだ沢山の山々が。そして富士山も、とてもきれいに見えました。こんなに良い景色が見られるんだもの、登山する人たちの気持が、わかるような気がしました。
 
 東京の山好きな友に「野口五郎岳に行ってきたんだよ」と話すと「すごいじゃん、よく行って来たね」。その言葉に「自分の足で登ったんじゃない。ヘリコプターで行ったの」と言うと「それじゃあまるで、遭難者と一緒だよ。自分の足で登りなさい。今度一緒に登ろうよ」と、言われました。
 
 まったくその通り。でも、足の痛い私には、とても無理。自分の足で登ることができたら、どれほど感動も大きかったろうと、思いました。本当に有難うございました。
 
 ちなみに、私の主人は山の案内人。シーズンになると、よく山へ出かけます。「山ちゃん」とか、「大将」とか、呼ばれています。どこかで逢った時には声をかけてください。そして、山小屋のオーナー家族は、とてもステキな人たちです。
 

 皆さんも、ぜひシーズンになったら、山へ逢いに出かけてください。気持ち良く迎えてくれること、間違いなしです。数ヶ月のシーズン中、登山者のオアシスとして、頑張ってください。素敵な友人家族に、エールと感謝を込めて!

【新米先生との思い出:千恵子】2011.2.6

2011/02/06 4:20 に ついついペコ が投稿   [ 2011/02/06 8:01 に更新しました ]

 松川村の小学校に入学し、きびしいけれど、とても良い先生に出逢いました。私たちは、先生にとって初めての教え子でした。児童の一人でも悪いことをすると、床に正座。背中を「バシッ」と、竹の差し棒でたたかれたものでした。理由までは覚えていませんが「正座しなさい」と、全員が床に正座させられ、たたかれたのが、一番大きな思い出です。 

 「先生、おしっこ」の声に、あわててバケツを持って来て、「早くここにしなさい」と言ったことも、思い出されます。 

 バケツに水を入れて、立たされている男の子もいましたが、その子がどこかに行っちゃって、先生が青くなって探したこともありました。親は「もっとしかってくれ」と言ったものです。これが当たり前の世の中だったんです。 

 その痛さは、今でも残っているような気がします。しかし、きびしく教えられ、皆、素直に成長しました。今では笑い話のように語られているんですよ。 

 卒業し、何十年かした後、家の近くの田んぼで、仕事をしている先生と再会。ちゃんと私のことを覚えていてくれたんです。うれしかったですネ。 

 その後、縁あって、私の働くことになった職場で、またまた再会。一緒に働くことになったんです。 

 現在先生は、(大町市にある)「折弁一座」の座員として、ボランティア等に頑張っています。先日も、大町市文化会館のステージに立っていましたよ。 

 いつまでも元気で、健康にいてほしいと願っている、今日この頃です。

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